景美・開道碑

台北・景美辺りを通りがかった時、見ると高さ180cmほどの古そうな石碑がポツンと建っていました。何回もみたのですが、近づいてみるとどうも日本統治時代、明治年間に建てられた物のようです。気になって調べてみました。

この石碑は「開道碑」といい、1909年(明治42年)に建てられました。

碑文を作成したのは台湾最後の「舉人」高選鋒です。「舉人」とは古代中国から官僚登用試験で清朝の時代まで続いた「科挙」の各地方での選抜試験「郷試」に合格した人に与えられる称号で、その競争の激しさ、仕事をせず学問だけに励むことができる財力を考えると、「舉人」の資格を持つものは地方の名士・知識人と理解して間違いないと思います。

内容は「瑠公圳」という灌漑用水路の流れを変えた結果、古い水路の水の流れが途絶え、汚い汚水の溝となってしまったので、埋め立てて道路(現在の木柵路)を作り、衛生問題と道路問題の両方を一挙に解決したことを記念したものです。

堤防建設時に無くなるのを恐れて、石碑は一時二二八公園に移設されていたのですが、1996年に元の場所に戻されました。景美の歴史を見守ってきた石碑といえるでしょう。

なお石碑の原文は以下の通りです。なお句読点や感嘆符や疑問符は分かりやすいように別途付け足したものです。

深坑廳長正六位勳五等丹野英清篆額

瑠公圳之源泉從木梘貫流景尾街之中央,臺北廳長加藤君移文深坑廳長丹野英清君改築木梘,移水路於街後,而街中之水路廢為空溝,塵埃委積,污水停滯,非唯損舊觀及市況而已,實有鬱生病毒之虞。丹野君憂之,令景尾支廳長雨田君規畫善計而任經營焉。加藤君聞而喜之,將廢圳之地附與景尾,且助工費,雨田君乃承丹野君命,召夫運土石,填空溝而築道路,兩側設小溝排瀉污水,引瑠公圳而洗滌。明治四十一年十月起,工十二月告竣,此除衛生之害與圖交道之便,所謂一舉而兩得者也,工費金二千一百七十五圓,半係景尾公共衛生費之支辦,半為瑠公圳與街民之出資,然而景尾街頭石門外之阪路崎嶇,車馬往來不便,雨田君又承丹野君命,以景尾、內湖二保甲之力,鑿岩石穿山腳,就舊道下邊更開坦路,於是臺北、深坑頓交通由街後者,今咸從街中直達石門外,而景尾之形勢一新矣!豈啻一鄉之幸福而已哉!於戲興此鴻益者,非賢宰之功而誰也?敬誌概要以備徵考云爾。

明治四十二年九月 景尾街有志者建立 壬寅科舉人 高選鋒書

※今回の記事については何文賢さんの景美地方文史部落格を参考にさせて頂き、碑文も記事より転載しました。ありがとうございました。

※在此我(平凡人@台湾)向何文賢先生表示深深的謝意!

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(2010年4月18日 更新)

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